ねこのひたい~絵日記室<ネタバレなしの映画評?>

 ~ネタバレなしでも、読めばガッカリ~

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「アワーミュージック」

生存者がいるのが不思議なくらいだ。

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復旧から半月も経たないうちに、これを採り上げるのは無謀なといいますか、天に唾する行為といいますか、自殺行為に等しい気もします。
なので、本当は、「いやー、見たいんですけど、まだ見てないんですよー」とトボケるか、「六本木といえばシネヴィヴァンだった頃ならいざ知らず、六本木といえばヒルズなこのご時世に、まだそんなもの見てるの?」とその存在すら否定するか、「えっ、ゴダードって読むんじゃないんですか?」と自分自身の存在を抹殺して映画とは無縁の人物として生きてゆくか、そのいずれかを選択するのが正しいんじゃないかと思うんですけど、復旧のきっかけのひとつがこれだったわけで、やはり素通りするわけにもいかないのでした。

といった前置きを書いといて、横槍を入れられた時の予防線にしておきましょう。
詳細も経緯も知らないのでどちらの肩を持つつもりもありませんが、幾度かTBやコメントさせて頂いたことのある某ブログの管理人さんが、ある映画の感想を載せたところ、その「言動」に対して「怒り」を抱いた方たちによって、ブログが炎上、閉鎖に追いやられ、さらに管理人さんの個人情報及び管理人さんだと勘違いされた別人さんの個人情報まで晒されたという「信じ」られないようなウワサを聞いたものですから、対岸の火事だと思「えば」いいのかもしれませんが、ネットを巨大な海に例えるなら海岸を意味する英語のショ「アや波」打ち際で我泣き濡れて蟹とたわむる程度の小心者ですから、同じような目に逢うのは今日か「明日か」と眠れぬ夜を過ごさぬための、保険のようなものです。


さて、『アワーミュージック』です。
「ミュージックアワー」ではありません。そっちは、ポルノグラフィティです。
ポルノグラフィティといってもエッチな雑誌ではありません。そっちは、ポルノグラフィですよ。
って、ラジオネーム「恋するウサギ」さんが言ってました。

なんて、逃げてばかりもいられないので、そろそろ本題に入ります。

第1部「地獄篇」は、様々なフィルムやヴィデオ画像から断片を抜き出して繋ぎ合わせた『ゴタールの映画史』から、戦争にまつわる場面だけを抜き出して繋ぎ合わせたかのようです。
これはあの映画からの引用だね、なんてやり始めると、知識自慢のクイズ合戦になりかねないし、もしそれをやったら確実に負けることがわかってるのでやりません。

そして、続く「煉獄篇」。
「本の出会い」というイベントに参加するため、その開催地である、かつて戦火に晒された街サラエヴォに到着したものの、他の参加者が遅れているため空港で足留めをくらいつつビールを飲んでいる映画監督のゴタールさん。
映画監督ゴタールさんを演じているのは、映画監督であり今作の監督でもあるゴタールさんご本人。
映画監督が「本の出会い」のイベントに参加するってのも変なわけです。劇中でも「本の出会い」に通訳として参加するオルガの叔父である人物から「なぜ、映画監督が?」と指摘させているわけですが、ゴダールさんはその理由を内省的なところからではなく「大学で講義するためだ」と行動的側面でのみ語り、わざと答えをはぐらかしているくらいですから、ゴダールさん自身もその不自然さはわかった上でなのでしょう。ゴダール本人が演じていて、もちろんフィクションであることは承知しながらも、「こういうイベントの講師を引き受けることで、稼いだ小銭を映画制作に充ててるんだなぁ」なんて下世話なことを考えてしまうのでした。

しかも、ゴタールさんが行った講義の内容も、いきなり崩れかけの建物の写真を聴衆に見せて「これが、いつ、どこで撮られたものだかわかるか」と尋たり、イスラエルとパレスチナの関係を映画の手法であるカットバック(切り返し)になぞらえたり、やっぱり「本の出会い」とはあまり関係がないという、確信犯的すっとぼけぶり。
とはいえ、前述の崩れかけの建物の写真に対し、聴衆である若者たちが、ベトナムだのベルリンだの今世紀に戦場となった地を列挙したあと、「南北戦争だ」ってゴタールさんは答えを言うわけですが、講義の聴衆よりも今作を見ている観客たちにこそ、最近のものだというミスディレクションをさせるために、150年前のものとは思えぬ鮮明な写真をわざと選んだに違いないわけで、とぼけつつもイジワルという最悪のジジイであります。

今作は、サラエボが舞台ということもあり、パレスチナ寄りのユダヤ人ジャーナリスト女性が出てきたり、そのジャーナリストに「ユダヤ的だ」と指摘されるパレスチナの詩人が出てきたり、ユダヤ人に射殺されるユダヤ人が出てきたり、直接的な言及はないものの、明らかに「9.11」以降が意識された、民族的、政治的な色合いの濃い作品でもあります。ふたつの岸を繋ぐ橋の再建という、ゴダールさんにしてはものすごく分りやすいメタファも出てくるのですが、そうした政治的側面ではなく、「画」の側面から。
ヤヌス・カミンスキーあたりが好んで使う最近のハリウッド作品のざらついた画調とは違う、シャープで全体としては冷たい感じなのに、黄や赤の原色がなぜかくすまずにキリリと映える、ゴダールさんらしい画面。
そんな画面を見つめていれば、今作では否が応でも「赤」に目が行くはずです。
ゴタールさんのマフラー、大使のネクタイ、オルガのバッグ・・・。

そんな「赤」については、いろいろな方が言及しているようですが、「赤」ほど頻繁には出てこないんですけど、ほとんど同じくらい印象的だったもうひとつの色がありました。
それは最後の「天国篇」にあらわれます。
赤いワンピースを着て森を歩くオルガが、最初に出会う人物は銃を持って川に釣り糸を垂れる水兵さんなのですが、水兵さんが身に纏うのがまるで「かもめの水兵さん」のように白い帽子、白いシャツ、白いズボン。
その「白」が、まぶしくてまぶしくて。
その制服を着せているのは肌の色濃いアフリカ系の人ですから、ゴダールさんが白さを強調してるのは間違いありません。
それが、ある人物の死で締めくくられる煉獄篇ゆえ、あらわれる「赤」は血や死であり、天国篇にあらわれる「白」は再生である、なんてふたつの色にそれらしい意味を持たせて、どちらかを否定的なものとしてとらえようとは思いません。
そのどちらも、実に美しく画面に映えていたからです。

最後にオルガがリンゴを齧るのも、それがアダムとイブの禁断の果実だからということもあるのかもしれませんが、「赤」い皮と「白」い果肉を持つ果物だからではないでしょうか。


最後に、極私的なことではありますが、様々な明りを反射させている濡れたゆるやかなカーブを描く路面を路面電車と併走する少し霧がかった夜のショットが、ブログを復旧する契機のひとつなのでした。
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