<世界のナカタ、司令塔のヒデといえば誰でしょう?>
いまさらながら、竹内結子さん、ご結婚、ご懐妊おめでとうございます。押入れの中で、口の端が切れるほど大きく口を開けて白目を剥いていたあなたの顔は一生忘れません。
そんな竹内結子嬢の死から始まる『リング』は、それまでも地味に作り続けられてきた日本の恐怖映画のエポックメイキングでありスタンダードとなったわけですけど、それが後続作品への抑圧になっていることも事実です。黒沢清の『回路』や清水崇の『呪怨』が、それがどこまで意図されたのものかは不明ですが、それを見る観客には『リング』という作品が強い抑圧を与えています。
もちろん、その抑圧は『リング』シリーズにまで及んでいるようです。
『リング』第1作は、脚本家の高橋洋により『ヒズ・ガール・フライデー』のように女性に置き換えられた主人公が、死のビデオという都市伝説のルーツを探すことから始まり、紆余曲折を経た結果「<貞子>は恐ろしい」という映画でした。
しかし、『リング』と同時上映だったにもかかわらず「あれはなかったことにしときましょ」ということになってる飯田譲二監督脚本『らせん』も含めて、以降の作品では「<貞子>は恐ろしい」が前提になってしまいます。そして、最後には「やっぱり<貞子>は恐ろしい」という結果に至るしかありません。
その恐怖が状況や描写としてではなく、<貞子>という固有名詞で語られてしまうために、シリーズそのものを抑圧していました。なんだか、呪いみたいですね。
それでは、「誰も知らなかった、誰も作らなかった【ハリウッド完全オリジナル・ストーリー】」(公式HPより)『ザ・リング2』で、前作『ザ・リング』のゴア・ヴァービンスキー監督等の降板により雇われ監督としてハリウッドデビューすることになった中田秀夫にとって、それは呪縛なのかどうなんでしょうか。
映画は、波立つ海面の映像を4カット連続で見せるところからはじまるのですが、その後も多く<水>が画面に溢れます。
ドアの下の隙間からじわじわ流れ出す、どす黒い血のような水。
物理的法則を無視して下から上へと滴る粒状の水、天井にたぷたぷと湛えられた水。
人が歩くとみしゃりみしゃりと音を立て、足を乗せるとそのまわりに輪郭のぼやけた小さな輪を描く、カーペットに滲み込んだ水。
<水>が重要なモチーフであるというのは、アーレン・クルーガーの脚本に拠るところが大きいらしいとはいうものの、やはり『リング』2作と『仄暗い水の底から』を撮った中田監督だけに、ストーリーの要求するレベルに留まらない表現をしていて、それがとても怖いです。
あるいは、ナオミ・ワッツ扮するレイチェルのひとり息子エイダン。今回の主役ともいえる彼が、あることをきっかけに不自然なほどまばたきをするのも怖い。
もしかしたら、そう感じるのは、例えば「満面の笑みだけど目だけモザイクがかかってる顔写真」を見てたまにふと怖くなる、小心者だからかもしれません。だって、なんかとても深い虚無がそこにある気がしちゃうんです。
もしかしたら、エイダン少年が怖いのは、その悲しみに沈んだ顔が曽我ひとみさんを彷彿とさせるせいかもしれません。
もうひとり、ほんのチョイ役ですけど印象的だったのがシシー・スペイセク。
これを書くとネタバレと言われそうですけど、彼女の登場で、サマラが、そして貞子が誰の血を継いでいるのかが、わかる人にはわかるようになってます。
アメリカは今やジャパニーズ・ホラー・ブームなんていわれてますけど、今はもうなくなってしまったアメリカの低予算ホラーというジャンルが、日本で研ぎ澄まされて、再びアメリカに帰っていっただけなんだ、とこれもまたわかる人にしかわからない話ですね。
そういえば、森でクルマに次から次へと迫るシカの群れと遭遇するところ。伏線はあるものの、それの意味するところはイマイチわかりませんでしたが、「次から次へと<せまるしか>」ってひらがなで書いて、スバルR2のCM、やや逃げ腰の木村カエラ嬢を思い浮かべては、ひとりほくそ笑むという方法で乗り切ってみました。
前作はウマを海に放り込み、今作はシカをクルマで撥ねる脚本を書いたクルーガー氏は筋金入りの動物嫌いなのかもしれません。
あ、まてよ。漢字で書くと「馬」と「鹿」・・・「馬鹿」?
冒頭の質問で、サッカーの話題だと思ってここに来ちゃったあなた、ごめんなさい。あるいは映画版「リング」シリーズのことだと思って来てくれたあなたも、こんなオチでごめんなさい。
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